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北九州へ。歴史的近代建築を巡る旅(3)門司港エリア。 2008年2月13日


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北九州の歴史的近代建築を訪ねた旅のレポート、その3です。今回も門司港レトロエリアを回っていきます。

 

山口銀行門司支店(旧横浜正金銀行門司支店)

山口銀行門司支店最初にご紹介するのはここ山口銀行門司支店です。旧横浜正金銀行門司支店として1934年(昭和9)竣工。その重厚感には圧倒されます。横浜正金銀行は外国為替の取り扱いを専門としていた特殊な銀行で。この銀行の支店設置は門司港の国際性を反映していました。
去年来たときにはまだあった、この桟橋通の西日本シティ銀行も解体されていて、門司港周辺の光と影を垣間見た感じです。ここも外観だけを記録して先へ進みます。

横浜正金銀行は外国為替取り扱いを専門としていた特殊な銀行で、この建物はもと九州鉄道門司駅の跡地に造られ、当時の国際貿易都市門司のニーズに応えるべく特別な期待が寄せられていたものであった。設計者の桜井小太郎は英国で建築を学んだ後、三菱に籍を置いたこともある建築家。クラシック様式の建物隅角部を正面入口とする手法は、明治以来の銀行や商社などの常套手法であるが、この建物の端正な比例や細部手法の確かさは、この時期のものとしても出色の出来映えである。
〈建築MAP北九州/TOTO出版より引用〉

 

栄町銀天街の平民食堂栄町銀天街にある「平民食堂」。休業して久しいそうだが再開されることはあるのだろうか。観光地として頭打ちの門司港。若者と老人しかいない街には皮肉にもマンション建設が相次ぐが、流入人口による商店街の復活はあるのだろうか。

門司区の中華萬龍栄町銀天街を抜け、徐々に上り坂となる、〈三宜楼〉へと向かう道すがら、中華の〈萬龍〉がありますが、定休日でした。残念。

三宜楼(さんきろう)

三宜楼保存活動が行われている〈三宜楼 さんきろう〉にやってきました。1931年(昭和6)竣工の〈三宜楼〉(さんきろう)は、かつて門司港を代表する高級料亭でした。延べ床面積1200平方メートル以上、部屋数も20室以上ある木造3階建ての大規模な建造物で、現存する料亭建築としては九州最大級。門司港駅から山手側の小高い山の上に位置するため、関門海峡を一望できたそうです。


三宜楼門司港の繁栄を象徴した〈三宜楼〉も戦後は斜陽になり、1955年(昭和30)頃に料亭を廃業したようです。

三宜楼近くに駐車場があったのでしょうか。周りの道は車は通れない細い路地です。〈三宜楼〉の路地向かいは高い塀に囲まれた更地が広がっています。どんなお屋敷が建っていたのでしょう。

福岡中央銀行門司支店(旧藤本ビルブローカー銀行門司支店)

福岡中央銀行門司支店福岡中央銀行門司支店(旧藤本ビルブローカー銀行門司支店)。1924年(大正13)竣工。

幅広い柱型や腰とパラペットに表現主義風の刻み模様を施した大胆な意匠を見せ、小さいながら異彩を放つ建物である。玄関廻りの幾何学的な装飾の帯や黒いタイルによる枠取りなども巧みなものである。設計者は不詳であるが、大正9年(1920)に東京で旗
揚げした日本分離派建築会に近いところにいた建築家の設計になるものであろう。〈建築MAP北九州/TOTO出版より引用〉

 

旧日本船舶通信ビル

マリーゴールド門司港迎賓館(旧日本郵船通信ビル)マリーゴールド門司港迎賓館(旧日本船舶通信ビル)1950年(昭和25)竣工。

交差点の角地に建つこの建物は、低層に抑えられコーナーが丸く削られており、圧迫感のないコンパクトな印象を受ける。全体的に装飾は控えられているが、上層部につけられた唯一の装飾が建物の上端部を強調し、さらにそれぞれの壁面に取り付けられた二層分の大きさの4本のコラムが、単調になりがちな全体を引き締めている。
〈建築MAP北九州/TOTO出版より引用〉

 

NTT門司営業所(旧門司郵便局電話課)

NTT門司営業所NTT門司営業所。1924年(大正13)、旧門司郵便局電話課として竣工。この高さで3階建てってことは天井が高いんだろうなあ。

建物の基部から上端まで垂直に通るマリオンの上部を角張った山形でつないだものを
全面に連続させ、建物角部にはアールをとった典型的な表現主義的意匠。山型の内側の小壁にある小さな四角い穴は、火災時に水が噴き出す仕掛けであったという。 正面玄関廻りは大胆な鋭角的ボリュームの彫刻的意匠でまとめられる。逓信省技師山田守の秀作のひとつに数えられる。 門司における最初の近代主義的建築であった。
〈建築MAP北九州/TOTO出版より引用〉

 

NTT門司営業所NTTなんだから、中に立ち入っても問題はなかったのになあ。なんで入らなかったんだろう。

岩田商店

岩田屋NTTから通りを渡ってしばらく歩くと岩田商店があります。東本町二丁目の角地に建つこの商店は、芸術的ともいえる防火壁を建物の近隣側2面に張り巡らし、延焼を防ぐ工夫がされています。1899年から地元で酒屋を営む〈岩田屋〉が、店舗兼住宅として移転新築されたものだそうです。現存する〈岩田屋〉の建物は、1922年(大正11)に大正期に建てられたものながら、戦火を免れた市内でも数少ない町家建築であり、個人住宅としては初めて北九州市の有形文化財に指定されました。

岩田屋の防火壁
2号線側から住居部を撮影。

岩田屋の防火壁72号線側の隣地境界線に設けられた防火壁です。雪の中でこうやって煉瓦の防火壁を見ていると、ここは小樽か? などと感じてしまいます。

岩田屋の防火壁もはや近隣は更地となった現在、その大げさな防火壁を観察することが出来ます。 これが当時の標準だったのかは知る由もありませんが、相当火災の延焼に気を遣っていたことがわかります。

旧三井物産門司支店倉庫群

門司の三井倉庫
門司港で現役で動いている港に足を踏み入れると、三井倉庫群があります。以前このブログで紹介した横浜の瑞穂ふ頭にある三井の倉庫群と意匠はそっくりです。
「三井」のロゴマークは横浜と比べてタイル張りではないですが、「A」の文字は横浜と同じタイル張り。「たばこのめぬ」という注意書きが笑いを誘いますね。長閑な時代だったのですね。

門司港の三井倉庫横浜にある三井倉庫もそうですが、三井倉庫の建物はどこか倉庫らしからぬ遊びがあって好きです。

門司港

関門大橋

 

西海岸一号上屋(旧門司税関一号上屋)

門司税関一号上屋〈門司税関一号上屋〉は、日本と中国を結ぶ大連航路(日満連絡船)の発着所として1929年(昭和4)に竣工されました。特に中国・大連行きの便が多く、大連航路上屋や大連航路待合室と呼ばれ、完成から第二次世界大戦の終戦で航路が断絶するまで日本の玄関口として重要な役割を果たしてきました。

大連航路の発着所として建てられたもの。北側に玄関があり、ホール右手の大階段を上がって階上の長大な乗船デッキや広い待合室に出る。1階は積荷の倉庫に当てられていた。1階海側は角張った大きな台形の開口部となっている。意匠はやや荒っぼい表現主義風であるが、かつては窓枠や出入口枠などの木部は緑色のペイントで塗られ、 また室内床には鮮やかな紫色のボーダー·タイルが張られるなど、大陸航路の待合所らしい華やいだ雰囲気があった。この1号上屋の南にはもう少し簡略化した意匠の同じような2号上屋(1936年竣工)が続いている。その後埋め立て工事のため岸壁は建物からはるか離れてしまい、1階の倉庫以外は使用されなくなっている。
〈建築MAP北九州/TOTO出版より引用〉

 

門司税関一号上屋設計は国会議事堂や横浜税関などを手がけた著名な官庁建築家・大熊喜邦が担当し、幾何学模様を取り入れたアール・デコのデザインが特徴です。

門司税関一号上屋
この廃れ具合がたまりませんね。

門司税関一号上屋北側入り口には「上階 待合室」と彫られた?受付が。

門司税関一号上屋

対を成す形で「下階 旅具検査場」と彫られた?受付があります。

 

門司税関一号上屋簡略ながらユニークな意匠がとても不思議な気持ちにさせるコンクリート建築。右屋にプラットフォームが続く。さらに奥には二号上屋が伸びています。内部は公開されていませんが、門司港レトロのウリとして活用できないものでしょうか。

 

門司港エリア・まとめ

ご覧いただいたとおり、門司港エリアは明治から昭和初期にかけ国際貿易港として繁栄した証を今に残す、近代化遺産巡礼にはもってこいのロケーションといえるでしょう。第二次大戦による大陸貿易の衰退と、高度経済成長にも乗り遅れたことが皮肉にもこれらの遺産を今に残す結果となっている何とも皮肉な結果が、観光資源に生まれ変わろうとしています。いわゆる「門司港レトロ」としての観光事業です。
次回、北九州へ。歴史的近代建築を巡る旅(4)は戸畑から若松方面を巡ります。


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