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アニメ「たまこまーけっと」5話、雑感。


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アニメ「たまこまーけっと」5話、雑感。

なんか山田監督の作品っぽくない、なんて、外野は騒いでいるようです。
高々監督2作目の彼女の作風を知った顔で語り、褒め称えるブログ等の多いこと。気持ち悪いですね。
恐らく、「けいおん!」の全放送回数が多かったもんだから勘違いしちゃってるんだろうな。場数をこなしていると、無意識のうちに。
「映画 けいおん!」でさえ、演出・コンテは石原立也はんや内海紘子はんが共同で担っている。木上益治はんの力も大きかろう。
TVオンエアの各話だって、「神回」と騒がれたうちの数話は高雄統子はんのコンテ・演出なんですよ。
京アニスタッフはんの力だけでなく、(映画版はそうは思わないが)優れたOSTだって作品を彩るものだし、それら様々な要素が奇跡的に絡まったのが「けいおん!」だった。
決して、山田、吉田、堀口、お三方だけの力ではない。

さて、前置きはこのくらいにして、5話を振り返ります。

今話は全般、キーワードや伏線とも思える要素を撒くだけ撒いて撤収、みたいな回でした。よって単体では面白くない。

夏だから蝉のSEっていうのもねえ。しかも街中の商店街でアレだけ鳴いてるって、、、違和感をまず覚えました。
そのくせ臨海学校の海辺ではあれだけ林があるのに鳴いていない。鳴いているのはなぜか鳥という。
街中では遠くで鳴いているように小さな音で聴かせた方が、「もち蔵」の孤独と暇さ具合を上手く演出できたんじゃないかと。海に着たら五月蝿いほど鳴いてる、ってのが蝉のSEの聴かせ方、かなと思いました。

たまこたち4人がプールに行く際待ち合わせる場所。ここはどこでしょう。商店街から外には出ましたが、巡礼的要素はオミットされましたね。京阪出町柳駅のタクシー乗り場辺りの光景と似ていますがどうなんでしょう。
その他、プールや海(琵琶湖ではなかった)など、特定するにはわたしの手元の資料ではどうにもなりません。

まず、今話で印象に残ったのは「たまこ」と「みどり」のプールでのやりとりです。

たまこ「だって怖いんだもん、息できないし」
みどり「だから息継ぎするんでしょ」
たまこ「もち蔵みたいなこと言うね」
みどり「大路が? 何時?」
たまこ「忘れたよ。つらい思い出だよ」
みどり「う~ん。。。」

という件です。たまこは昔、もち蔵から何と言われたんでしょう。みどりが諭した言葉と同じでしょうか。そしてそれは「水泳」に関することだったのでしょうか。
たまこは「忘れたよ」と答えますが、同時に「辛い思い出」とも語り、往時を回想しているようです。
思うに「たまこ」は当時起こったある事象と、事象に対するたまこの反応、さらにたまこの反応に対してもち蔵が諭した言葉、すべてを覚えているのでしょう。
今話では縁側で寝入るたまこの寝言にも「『あんこ』もおいで。息継ぎすればいいんだよ・・・」と繰り返し使われており、これは今後のストーリーの伏線、キーワードとして覚えておきます。

次のシーンでは「大路屋」の昼食の様子が描かれます。素麺旨そうだなあ。ボーっとしているもち蔵を母親が茶化し、照れるもち蔵のリアクションに父親はさもそれがこの世界の常識のような冷静な相槌を加えます。これはどういうことなのでしょう。父親同士はあれほどいがみ合っているのに、また「たまや」の主人であり、たまこの父親はもち蔵のことを眼の敵にしている描写は今までもありましたが、もち蔵のたまこに対する感情に対して、「大路屋」の大人ふたりの態度はあまりにも寛容に見えます。
解釈のしようによっては「たまこ」と「もち蔵」の将来はすでに約束されたもの、と取れなくもありません。
単純に「男の子」と「女の子」を持つ家庭同士のそれぞれの子供に対する態度ではない気がするのですが。。。
このあたりも気に留めておきます。

そして、もち蔵の妄想です。
たまこに「一緒に遊ぼ」と誘われたのに、もち蔵は「そんなんで来たんじゃねえし」と拒否しますね。
ここで「たまこ」の表情が曇るのにお気づきでしょうか。そしてたまこの「そっかあ」という台詞で妄想は終了します。
普段、というかこれまでのシリーズ中で「たまこ」の悲しみや残念さが表現された貴重な表情(=演出)と捉えることができる、とわたしは思いましたが、どうでしょう。
たまこから誘われても素直になれない自分に彼は気づいているし、そんな自分自身の呪縛から逃れたいと思っているのですが、そうはできない「理由」があるのではないでしょうか。

デラが貨車と貨車を繋ぐ立ち位置でもち蔵の力になると言うあたり。。。つまりそういうことですね。
ただ、不思議に思ったのは、3話でデラは史織に対して、感謝の気持ちを「自身で直接」たまこに伝えるよう諭しましたよね。なぜ、5話で「もち蔵」に対して「自分の口から告げるよう」アドバイスしなかったのでしょうか。デラのスタンスのぶれは気になるところです。

うさぎ山高校の女子の制服、ピンクの夏服、あれはいただけません。

「デラちゃん」っていう「みどり」の台詞。「オス」に対してのこの台詞、「みどり」は「デラ」に対しては心を開いている、ということでしょう。※2話参照。
しかし、そのデラに対する仕打ちがひどい(笑)という。同時に、今話の演出が下手だな、と感じたのはこのあと、みどりがいきなり閉じた窓を再び開けるカットです。
たまこは「デラの声が聴こえなかった? 」とみどりに訊き、さらに振り返り窓向こうに目をやります。だったらみどりが窓を開けたとき、たまこは窓の方を向き、何ならみどりの横から窓の外を眺めたりはしないでしょうか。それがあらぬ方向へ向いたまま。。。
みどりの横から顔を出して、デラと、ついでにもち蔵も発見して、たまこが「デラちゃん、やっぱり来てたんだ! あっ、もち蔵もいるー!」とか横で言ってるのを見て、みどりが(無言で)あっかんベーをして窓を再び閉める、、、「みどりちゃん、どうしたの?」ってたまこに訊かれても「なんでもない」とかしとけば良かったのでは。

その後の松林での「もち蔵」と「みどり」のやりとりについては特段の感想を持ちません。昔から「たまこ」を知る者同士の言い合いに過ぎません。ここで小学4年の「みどり」に「知ってるに決まってんジャン」と語らせる演出は上手いですね。
しかし、直後のみどりの台詞が良くない。この台詞については5話の焦点としてネットでも話題になってますよね。
「とにかく、『たまこ』はわたしのともだちだから! わたしが守るから!!」。。。この言葉の真意です。
ここでは普通に「みどり」の幼さを表した、としておきましょう。

「みどり」と「もち蔵」の「たまこ自慢」ケンカに割って入る「デラ」。「おぬし達から同じ香りがした、、、いまは波立っているが、後に美しく透き通るはず。。。おぬしたちの香りは、同じ色を持っている。」
いまはケンカをしていても、「たまこ」を想い、それを言葉にできない者同士の友情、もしくはそれ以上のものが芽生える、という解釈をしています。
ここでもたまこの誘いに応じず、場をあとにするもち蔵。みどりは何かに気づいたかのように浅い溜息をつきます。

そして翌日、遠泳を終えたもち蔵の応援に素直に答えるたまこ。傍でイラっとしてるみどり。

ここで注目したのは海面の色の描き分けです。端的に見えるのが「みどり」の前方と後方の海面の色の描き分け。前方は明るいブルー。背面は暗い碧ですね。たまこも同様。。。前向きと後ろ向きを色で表現したのかと思いましたが、、、あまり意味はなさそうです。

たまこの鼻をつまみながら言うかんなの「溺れるよ」。これは意味深に最初は聴こえたし、前述の「息継ぎ」と対になるのですが、ここもあまり意味はなさそうです。

 なぜかたまこたち、体操着にローファー? スニーカー履けばいいのに。
あと、花火の作画も駄目。綺麗に見えない。

みどり「なんか」
もち蔵「ピンチっぽい」
たまこ「助けてくる!」

ここも特段意味はないかな。

ラストシーン、たまこの「むふっ」、かんなの「むふっ」、そしてみどりの「むふっ」に意味はあるか。
恐らく意味はありません。というか、5話を通じてもち蔵が彼女たち3人から応援されるような成長をみせたかどうかです。砂浜に座って会話する彼と「みどり」とのやりとりに、少しだけその跡が見て取れなくもありません。
にやっと笑ってサムズアップ! 
これは普通に捉えれば「お前の恋、応援してるよ!」ってことになります。
以前のエピソードで「恋愛不感症」ではないか、と思われていた「たまこ」ですが、少なくともここでは、カウンターのもち蔵を一目見て「たまこ」はそう思いつつあのポーズをとった、としましょう。
「かんな」はそんなたまこの仕草とその裏にある感情を一瞬で理解し、もち蔵に対し、同じポーズをとります。
そして、ここまで「たまこ」「かんな」の仕草を見ていた「みどり」は、、、 臨海学校を通じて、こちらも少し成長したのでしょう。半分照れを交えた同じポーズをとりフレームアウトします。
ここで肝心なのは3人の女子の中で「もち蔵」の恋愛対象が異なることなんでしょう。「みどり」は成長して、「もち蔵」の「たまこ」に対する感情を許容したのですが、「たまこ」は彼に対し「みどりちゃんと仲良くね」という気持ちがあったからあのポーズを取ったのです。

誰が誰を好きにってもいいってのは、思想の話なわけで、実社会での同性愛者容認の流れの歴史と同じです。フィジカルな接触を伴うそれは容認できないし、そんな彼らの対象が自分に向けられるのは流石に勘弁して欲しい、などとわたしなどは思いますが、そうでなければ個人の思想、人格をディスるつもりはありませんよという。

というわけで、母から再び茶化されたように、もち蔵の「宿題」は誰の手を借りるわけでもなく、自らに課されたものであるという認識を描いて5話は終わります。

萌えを期待して観るにはあまりにも難解というか、見せ方が浅いというか、確かにフラストレーションを感じた回でした。
そして冒頭の感想に戻るのですが、、、ここからどう盛り上げるんだい。京アニはん。山田はん。もちろん応援ですよ。


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