映画『君の名は。』を観た。もう結構、公開から日数たってるし、テレビの「ZIP」とかでも、ネタバレ的な映像公開しちゃってるので、ここでも一部ネタバレで書きます。
未見で情報遮断してる方は注意。
なんで高校生風情がアーロンチェア使ってんだよお。。。
そんなオープニングの映像は、あれから5年経過しているから、ということ。エピローグをオープニングに持ってきて、エンディングで帰結させるやり方ですね。
初回見た川崎、109シネマズの6番スクリーンは、上映中、隣のシアター(IMAXのシン・ゴジラ)の音漏れが激しく、鑑賞には不向き。要注意。
これって、他のシネコンでもたまにあるけど、今後の課題だね。
音の良さでは結局、ブルク13に軍配を上げました。
結局、公開から4回観たけど、あんなシーンやこんなシーンを確認するには、座席蹴られるリスクを恐れて最後列に座ってちゃもったいないし、ブルクのシアター1で言うなら、〈G-16〉とかに座って、視角目一杯にスクリーンが収まって、結構な音圧も体験できるので、オススメします。
そんなエピローグみたいなプロローグのアバンが締まって、ここで新海はんはOPテーマとアニメーションを持ってきたわけです。TVアニメみたいにね。
恐らくTVアニメの決まりごとみたいに、1分30秒では纏めていないけど、このカントク作品としては珍しいかもしれないです。
このあたりの切れの良い編集の見せ方はこのカントクの真骨頂ですね。
※新海はんの劇場公開作はすべて鑑賞しているが、「星を追う・・・」だけは余りの出来の悪さに、その内容もほとんど記憶にない
そんなポップなOPが終わって冒頭のシーン。三葉のヌードシーンは、大林宣彦監督の「転校生」(1982)へのオマージュなんだろうけど、ここだけの情報ですが、BDリリース時には謎の光で隠されていた三葉の乳首が解禁されます、って嘘です。。。
OPテーマ&アニメ同様、新海はんはここでも割と斬新な見せ方を採用している。そう、「おパンツ」を堂々と描いているのだ。色気はないけどね。
あの布団と姿見の位置関係からして、本来は三葉のM字開脚とか見えないとおかしいんちゃう? とか思うけど、あのシーンで堂々と、パンツを見せ、物語後半でも何度か、三葉のパンツが描かれている。なんとお尻の肉もね。
※だから、最後列じゃもったいないよ、ということ
これは、夏休み公開のビッグバジェット・アニメーションでは昨今ないパターンでしょう。ジブリ作ではかぼちゃのパンツ以外見たことないし、細田はん作品でもあったか思い出せません。ただ、これも普通に考えれば、普通に見えなきゃおかしい状況で、敢えてそれを描かない、というのは、却っておかしい、ということなんで、京アニはんの最近の例だと、「甘城ブリリアントパーク」で、千斗いすずの尻を描いては見せたが、決してパンツではなかった点と比しても面白い。やったもん勝ち、とは言わないけど、これはこれでありかなと。ただし、劇場の空気として、若干こういうシーンでは女性客が引いているのがわかるんですよね。これだけ満席だとなおさらね。
加えて、〈口噛み酒〉を商品化する、という四葉のアイディアを具現化した三葉の吹き出し妄想のシーンでは、クスリともしないんだよね。これだけ満席なのに。ここはキモヲタ側に寄せすぎちゃったね、新海カントク、といったところでしょうか。
大林監督の「転校生」がジェンダー入れ替わりの修復に躍起になり、周りの人間も性差の入れ替わりに対して、批判的なのに対して、本作の主人公や周りの人間は暢気なもんで、身体の変わり具合や、性格の不一致をさほど気にしていないように見える。むしろ楽しんでいるようだ。
そこには大きな違いがあるからだ。立花 瀧(たちばな たき)と、宮水三葉(みやみず みつは)が入れ替わっている際に同時に存在することがない、という点。
その事象、事態を把握してるのが当事者同士、っていう安全網は張られてる。物語途中までは。二人の声を当ててる俳優はんも、入れ替わり時の声色込みで面白かったし、萌えました。
最初、私もよく理解できなかったのだけど、この物語、三葉は瀧よりも3歳年上である。でも同じ高校3年生。そんなパラレルな状態で二人は同じ様でいて異なる世界に実在しているのだ。途中までは、というお話。
三葉の上京によって、中央線車内で出会う二人だが、瀧は三葉のことなど知る由もない。そんな中坊の瀧は受験対策として単語帳に眼を遣り、三葉との身長もほとんど変わらないのだ。
3年間の時空を超え、二人は入れ替わっているんだから、当然である。
本作、前半から中盤までは結構魅せた。客席からは笑いもこぼれ、新海はん、成長したじゃん、と思ったものだ。この監督は過去作でほぼ、〈笑い〉を演出してこなかったから。
アニメ「氷菓」で高山巡礼をした身としては、JR名古屋駅の連絡通路や、特急ひだ、それに飛騨地方の名産品紹介といった、巡礼型アニメの法則を盛ってきているあたりも好きだ。
※片や、このカントク作に頻繁に登場する、新宿駅近辺の描写はもう飽きました。次作では新宿以外のロケ地でお願いします
しかし、中盤以降がいけない。
着地点として、「秒速5センチメートル」と比べても、後味の悪さは感じない。むしろ、ハッピーエンドとして上手くまとめている、とは思う。
※その後の二人のことは勝手に妄想してください。
このカントクは主題歌や挿入歌に意味を持たせすぎなんだと思う。
それはなんだか、説明不足の説明過多みたいで、鼻白んでしまうのだ。
「秒速5センチメートル」では「One more time, One more chance」(山崎まさよし)に演出補佐を依頼(比喩)し、「言の葉の庭」では「Rain」(秦 基博:原曲は大江千里)が演出協力(比喩)をしている。
回りくどい言い方だが、作劇で足りないところを挿入歌の歌詞で補っている、感が酷すぎませんかね、という点。
台詞が説明過多、って作品は良くあるけど、本作はそれを歌の歌詞に換えただけじゃない。
それを新しい演出、とか言われても。
じゃあ、次回はミュージカル・アニメでも作ったらいいんじゃないでしょうか。
また、比較対象として細田 守はんが挙がってきそうだが、恐らく、いまの若者が観たいのはこっち系(新海はんね)の作品だと思う。
堅苦しい親子間の情愛がテーマの彼作群と比すれば、例えそれがファンタジーであっても、本作のようなピュアな恋愛物を彼らは選ぶであろう。
こと、本作「君の名は。」に限定して言えば、ジブリや細田作品と比して、家族連れ客を収容できる要素はないと思われるが、友達、カップル、そしてキモヲタは充分釣れるし、最後の連中に関しては相当のリピート需要があると思われるのは前述した要素による(ブルクのシアター1で言うなら、〈G-16〉だぞ!)。
結局、歴史を書き換えた後の、主人公と周りの人間の記憶もすべて書き換わったことになるわけで、このあたりも含めたファンタジーを容認できるかどうかが、本作鑑賞後の印象の違いを握る鍵でしょう。ラストの瀧と三葉の邂逅シーン込みでね。
それこそ二人が邂逅する〈トリガー〉です。
個人的には、渡邊孝好監督作品「エンジェル・君の歌は僕の歌」(1992)のラストシーンを思い出しましたけどね。その因果関係込みで。
その〈気づき〉自体をファンタジーとして解釈して感動できるか、です。
私の解釈は、三葉が瀧の掌に書こうとして、一画目しか書けなかった「一」ですかね。
三葉も瀧と同じ言葉を書きたかったんでしょ。という解釈です。それが、その気持ちが〈トリガー〉です。
初動の興行成績がすごいことになってる本作、大概の劇場では「聲の形」予告編が流れるので、松竹はんも良い宣伝になってると思う。どうなることやら。
本作は配給がマジの東宝はんだから、宣伝に金かかってるのもわかるし、ジブリ亡き(比喩)あと、夏のアニメ大作として、細田はん同様、新海はんのタイトルも「そうしたい」って意図がわかりますね。
予告編の編集をそのまま本編で使うっていうのも斬新でしたね。
でも、新海はんに関しては、次回作でその真価を考えてみたいと思います。
【2016年10月2日追記】
「映画 聲の形」のページでも紹介したが、2016年10月1日(土)の「ライムスター宇多丸の
概ね、私の雑感とトーンが同じで、腑に落ちた一方、じゃあ、細田 守はん作品のアラもこき下ろせよ、と感じないわけではなかったと追記しておく。