7話からは遅れてきた主役・その2とも言えるであろう「こげにゃん」を髣髴とさせる「お付き」こと「チョイ」という女の子視点の「たまこ」と商店街の人々が描かれるのだろう。
どうですかね。
うさぎ山商店街のメンツから歓迎されている模様の「お付き」。「デラ」を抱えて困惑してるあたりからして、すでに相当可愛いです。
似てますかね、梓に。
「けいおん!!」12話、夏フェス!と、13話、残暑見舞い!で登場した、通称?「こげにゃん」です。
これで萌えヲタが釣れるんならそれもよし。わたしも思いっきりブヒらせていただきますとも。
6話。
良いと感じた点をいくつか。
今話は「たまこ」の私服を堪能できた回でした。世の風潮に習うように、最初のお地蔵さんに参るときのたまこの〈一見ミニに見えて実は違う〉キュロット・スカートですとか、桜の造花にグリーンの塗料をスプレーしてるところとかですね。「みどり」や「かんな」の私服も楽しめた回でした。
。。。力尽きた。続きは明日。。。
【続き】
やはり京アニ作品初の担当となった今話のシナリオライターはんに起因するものかと。この微妙な読後感は。
コンテ・演出も、特にサラリーマンのゾンビ風初期描写と、種明かしの際のそれとのギャップという悪循環も重なり、「さしみ」の奥さんのアレ具合がことさら誇張されてしまっている。
商店街のメンツの慌てぶりは、「大人じゃない」感もオーバーに描かれすぎと感じたし、本の話に戻ると、「かんな」の説明描写が何と言っても雑すぎます。何事も「裏」が読める頭の回転の速い娘、として「かんな」は初期から描かれていますが、今回のは悪い方向での起用です。
※ちなみに昨今の言葉狩り的文法だと、「サラリーマン」(ビジネスマン)は「ビジネスパーソン」と置き換えられることがあります。「マン」は男性を表すからだそうで、女性蔑視だと。。。ほんとどうでもいいですね。
「きふねちゃん」って、カントクはこのために貴船神社に取材に行かれたのかと思うと、、、ガクッ。。。
「けいおん!」「氷菓」「中二病」とは真逆を行ってるのは、巡礼要素の排除でしょうか。出町商店街、藤森、聖母学院と小出しにしてはいますが、商店街周辺の巡礼要素がほぼ排除されているのはもったいない、というか、鴨川デルタ周辺を描けない事情でもあるのでしょうか。
やはり6話までに本作は製作側から「物語のゴール」の提示がされていない、というのはあると思います。
「ストライク・ウィッチーズ」なら魔法力の喪失は仲間との別れと同時に青春の終わり、という作り手の提示が理解できます。坂本美緒のように、501除隊後も現場に出張ってくることはレアケースなんだろうと。
そこに向かい「終わり」を窺わせる描写(=葛藤、心の機微を描きつつ、主人公たちの成長に昇華させる)を小出しにしていきながら物語は見る者の興味をフックアップして進んでいくのだと。
「けいおん!」なら唯たち2年生の文化祭がその役割で、「けいおん!!」だと、まさに唯たちの卒業がそれだった。
他の京アニはん作品では、「日常」「氷菓」「中二病でも恋がしたい!」ではどう提示されていただろうか。
「中二」では不可視境界線と六花と勇太の恋の行方ががそれを担い、鬱展開と言われながらも最終回まで見る者に集中力の持続を与え続けることに成功したんじゃないかと思う。
残念ながら「氷菓」は原作各巻ごとの謎解き=最終回はあるものの、〈古典部シリーズ〉自体が完結を見ていないため、「遠回りする雛」では「える」達主人公の行く末を描けず、アニメ自体の締めも中途半端とする他なかった。
「日常」も原作が完結していないが、「東雲なの」のネジが取れるのか、「ロボ」と「ヒト」との境界で彼女がどう成長するのかっていうのは結構興味深いテーマだった気がするのだが。
本作では、「鳥」の目的の達成という「ゴール」めいたものは示されているものの、そこに見る者の興味をフックする要素が追加されていないのが苦しい。7話ではその要素を埋めるべく、いよいよ「お付き」が登場するのだが、彼女の立ち振る舞いがその役割を果たせるのかはまだ解らない。
むしろここでも「たまこ」は物語には直接絡まないのではないか、という諦めにも似た不安が拭えない。
観る者として「興味の的」がいまだ見つからない「たまこまーけっと」。
これじゃ乗っかろうにも乗っかれない、というのがわたしの気持ち。
それと、以前も書いた「CUT」だが、二度と買わない。ああいう提灯が現場を、観る者を駄目にする、と思う。
©京都アニメーション/うさぎ山商店街
©かきふらい・芳文社/桜高軽音部