映画「聲の形」を観た。
若干のネタバレあります。
川崎チネチッタ、横浜ブルク13、T・ジョイPRINCE品川の3劇場で鑑賞したが、映像、特に音響は以前から主張している通り、ブルクのそれが突出している。音の圧、キレが断然いい。
あいにくこの3連休、同シネコンでは日中、大きなスクリーンでの公開は見送られたが、それでも比較的前のほうの座席での鑑賞をお勧めする。
公式設定集に関しては、公開初日のチッタにおいて、上映直前の売店には相応の在庫はあった。
しかし、観賞後売店を覗くと人だかり、、、完売という。orz。。。パンフだけ購入。
しかし、そこで思いついた。
初日なのに上映開始が遅いシネコンが川崎にはあって、そこを目指しました。
そこはまだ初回の上映中なので、売店の在庫は潤沢にありました。難なくゲット。ラッキーでした。
これ、高いけど、買って損はないですよ。
コミックを読んだだけでは気づかない点があったので記しておく。
将也が母親に付き添われ、硝子の母親に謝罪に行くシーン。
母親同士どこかに消えたのち、再び現れた将也の母親は将也に帰るわよ、と告げるが、この場面、コミックで気づいた方は少数派ではないか?
ここを色の付いたアニメで観ると、将也の母親は硝子の母親に右耳のピアスを引き千切られ、傷を負い、相当に出血していることが判るのだ。
また、こんな行為を誘発したエピソードとして、将也が教室で硝子の右耳から無理やり補聴器を引き剥がそうとして、硝子の右耳の付け根から出血する、という場面であるが、コミックではここでもその描き方は控えめであるのに対し、劇場版では流血という描き方を敢えて見せることで、この二つの行為の因果を明確にしているのだ。
■硝子が将也に惚れる理由。
この点については、原作を読み込んでも、硝子がなぜ将也に対してああまで寛容なのかはわからないの。つまり、硝子が将也に惚れる理由。
後日回想で明かされる、手話でネックハングするほど傷ついた硝子がである。
考えるヒントは将也と硝子の妹、結弦との関係性にあるのかしら、とは思うが。
硝子の母親の無念さを描くには、最初に硝子と将也が鯉に餌をやるシーンで母親を登場させ、ここで将也をまずビンタさせとくべきだったかなと。
つまり、原作どおりの描写で良かったんじゃないかと。
事程左様に、原作信者にとっては、こうじゃない、とお思いになるのは解らんでもないけど、アニメーションとしての見せ方は、あれとは切り離して、もうひとつの作品として味わえばいいのではないかと思う。
130分は長いようでいて、意外に時は早く過ぎる。しかし過度の水分摂取は禁物。鑑賞後に思い切って乾杯しよう。
■動く彼女たちを観る楽しみ
何にせよ、コミックのキャラクターたちが京アニはんによって息を吹き込まれ動くのだ。
これを観ていて楽しくないはずがない。
精緻なキャラクター造形、特に若干肉感的に盛られた女性キャラのそれは息を呑むほどに美しい。
特に賛辞を贈りたいのは西宮結弦の作画と声を当てた悠木 碧に対してで、入野はん、早見はん、小野賢はんのアクトもすばらしいと思ったが、結弦の美少女ぶりにはひっくり返った。
■演出
演出に関しては「たまこラブストーリー」とかぶるそれが散見され、例えば「回りトラック」だとか、床を鏡に見立て、スカートの中見えちゃう的なものであったりだが、恐らくこれから明らかになるのだろうけど、130分の尺をクレジットされている複数の演出はんがパートごとに分けて担当されているんでしょうね。
判り易いのがオープニングから、将也と硝子の取っ組み合いの喧嘩まで。つまり波紋に始まり波紋に終わる、あそこです。
そもそも、オープニング曲にThe Whoを持って来るとか、このカントク、どんだけ、とは思ったけどね。常に新機軸を、と言うつもりもないけど、これが山田監督の味付けになっていくのかしら、と感じた次第。これも新海はん同様、次作あたりでも観ないと、もう少し評価材料が足りないかなと。
波紋で思い出したけど、オープニングクレジットの京都アニメーションの映像、水面のパターンが今作から変わってますね。気のせいかな。
京アニはん繋がりで書くと、オーラスの文化祭のエンジョイ振りを映し出すモブの動かし方は神。この伝統は同社の十八番、として確立されていると思うが、アニメ「氷菓」でも感じた高揚感は本作でも生かされている。
エンディングの高揚感は、あの作画&動画がなければあり得ない、と思う。
■音楽
The Whoに関しては、書いた通り。タイトルバックは狙い通り決まってますね。「聲の形」の作品その物を表現しているかどうかはともかく。
訳詩はネットで見られるので、参考にしてください。採用した意図は通じますよ。
OSTはパンフを読む限り、この二人結婚(双方既婚かどうかは知らんが)しちゃうんじゃないの?ってくいらいのシンクロみたいでしたけど、斎場のシーンでのそれは、PA壊れた? と感じたくらい、ちょっと耳障りな箇所もあって、全般、評価は保留かな。
エンドロールで流れる、aikoはんの「恋をしたのは」に関しては、以前書いたとおり、もともとファンなので、久しぶりにシングル購入すると思います。
ただ、進行の具合なのか、大人の事情なのか、エンドロールに映像的な味付けがなかったのは寂しかったなと。この辺は「ユーフォ劇場版」の出来が良すぎたせいもあるのかしら。
また、ジャケットにアニメ仕様がないのも残念かな。
京アニはんのタイトルには製作委員会としてポニキャはんが名を連ねることが多いので、いつかはこの組み合わせが実現すると思っていましたが、願いが叶った感じです。
全体のバランスとしてはこれがいいんですよ。
OP/EDでヴォーカル曲が2つ。あとはヴォーカル無しの劇伴。映像をフォローしてくれればいいのであって、物語の説明をしちゃいけないかなと。
やはり、彼作は多すぎです。
■見せないことの美学
当然この夏のアニメーションとして比較されるであろう「君の名は。」と本作「聲の形」。
筆者はどこにその差異を一番感じたかというと、そう、「おパンツ」である。
「君の名は。」の評でも触れたが、チーム新海が積極的に見せる方向に作画の舵を切ったのに対し、本作「聲の形」では京アニはんの伝統美と言っても過言ではない「見せない美学」が貫かれている。
だがしかしである。「エロい」のである。
決して楽をしているのではなかろうが、「聲の形」では顔の表情を見せないシーンが多々ある。その結果、観る者は首から下や、腰から下辺りをチョイチョイ見せられるわけだけど、その見せ方がイチイチエロいのだ。これらはあっけらかんとその物を見せられるより遥かに心に響くものがある。大方そういう見方、感じ方をしているのは筆者のようなキモヲタ達だろうけど。
初回の隣席は風呂入ってない体臭デブ、2回目の隣席は口の臭いオヤジ、と籤運の悪さに辟易していたのだが、今日観た3回目の隣席は今どきの女子高生風情二人連れ。この子等のノリがいいことといったら、永束のキャラ造形や繰り出すギャグ、弄られ方にキャッキャと受けまくっているのだ。土日見た限りでは劇場は満席だけども、クスリとも笑いが起こらない状況だったのに、今日観た品川は客席の至るところから笑いがこぼれ、私自身楽しい鑑賞となった。上映前に大垣市長の聖地巡礼スポット映像が挿入されるなど、客席の笑いを誘っていた。
今作に関しては私は行きませんけどね。
鑑賞後の客席は比較的心地良いぐったり感に支配されている印象で、「君の名は。」鑑賞後のはしゃいじゃって感の様なものはない。ただ、その空気が、つまらない感から発せられたものではないことを付け加える。
障害者をテーマとして扱った、苦い思いをしたいなら原作を。
それはひとつのテーマだけど、彼らを美しい映像作品として楽しみたいなら劇場へ足を運ぶことをオススメする。
以前のエントリで書いた、「君の名は。」と比して、どっちがいいのよ、と問われれば、スケール感を含めた背景は彼作、キャラ造形と、ストーリー進行は「聲の形」となる。
お互いの作品とも、この後、主人公二人が、どんな人生を歩むのかは観る者の想像に委ねられるわけだけど。当たり前か。
それにしても宇多丸はん、なにサボってんだよ。「君の名は。」か、本作、早くレビューよろしく。
【2016年9月25日追記】
ついに、2016年10月1日(土)のタマフルで宇多丸はんの「君の名は。」レビューがオンエア決定。新海作品の過去作品総括(短編ばっかだから楽)と、細田 守はんを持ち上げる傾向がある同氏の講評が楽しみ。
※ここまで引き伸ばした、講評までの身内に於ける進行台本はあると思いますけどね
一方、「聲の形」は候補にすら挙がってこないので、このままスルーかなあ。こっちもやって欲しいなあ。
【2016年10月1日追記】
10月1日の「ライムスター宇多丸の